『時事通信社の格別のご厚意により「時事解説」2001.4.610866より転載するものです。』
世界遺産の破壊を繰り返さないために

           文明間の対話を急げ   
服部英二
 
 一千万個の地雷、がれきと化した首都、廃虚のような博物館、片足を失った人々、食を求めてさまよう子供たち―― これがかつての文明の十字路、アフガニスタンの今の姿だ。そして世界の人々は、バーミヤンの岩壁の大仏が爆音と硝煙の中で姿を消すのをテレビ画面で見た。
 
 歴史的に貴重な大仏
 なぜこのようなことが起こったのか? 大乗仏教は一世紀の後半、ユーラシアの屋根カラコルム、ヒンズークシの両山脈に抱かれたガンダーラ、すなわち天竺の地で生まれた。仏陀入滅後五百年のことである。
 前三世紀、マウリヤ王朝のアショカ王は仏教に帰依、その熱心な伝道は今のパキスタン北部のこの地に至る。そのガンダーラの中枢タクシラは、前四世紀はるばるギリシャから東征したアレキサンダー大王の到達点である。アレキサンダーの帝国の崩壊後も、その東端に住むギリシャ系バクトリア人はヘレニズム文化を生きていた。
 そして一世紀、新たに北方より渡来した中央アジアの遊牧民がこの地に侵入、クシャーン王朝を樹立する。その第三代のカニシュカ王は仏教を庇護(ひご)し、かつインド北部全域・イランも領有、中国・ローマとも交渉を持った。
 カニシュカ王を語るとき、注目すべきはその宗教的寛容であろう。この王の下、仏教はヘレニズムやローマの神々と、ゾロアスターの光明神と、そして復活してきたインド古来の神々と出合う。つまり大乗仏教とは、単なる仏教とギリシャの出合いではなく、少なくとも四つの大文明の融合、止揚であったのだ。この止揚が大帝国クシャーンに二世紀から三世紀、けんらん豪華な文化の花を咲かせる。
 クシャーン帝国は三世紀後半、新たに興ったササン朝ペルシャに滅ぼされるが、大乗仏教は時を同じくして峻険(しゅんけん)な山々を越えパミール高原を経て、タクラマカン砂漠の北道と南道へと移動を開始する。キジル(亀)には三世紀、敦煌には四世紀、仏教石窟(せっくつ)が現れる。
 一方、カブール川沿いに、あるいはガイバー峠を越えて西に延びゆく道はかつてのバクトリア、今のアフガニスタン北部に数々の拠点を造っていった。その道の西端標高二、八○○bの峡谷バーミヤンの断がいには、あたかもインドのアジャンターを模したかのごとく無数の石窟をうがった聖域が出現する。
 特に五世紀前後に彫られたとみられる二体の大仏は一体が三十八b、一体は五十五bの立像で、世界最古にして最大のものであった。このように岩壁に巨大神像を彫ること自体、もはやインドではなく西方との接点を示している。それはアケメネス朝に始まる古代ペルシャの風習であった。あるいはこのダリウスの帝国を経てもたらされていたエジプトの巨大神像の情報がここも及んでいたのかもしれない。
 この二体の大仏は、今回の破壊の既に数百年前、顔面をそぎ落とされ破損が進んでいたが、造られた当初は金ぱくに覆われていたと思われる。七世紀、天竺に経典を求めて長安を出発した玄奘三蔵は、バーミヤンの地に至り、そこに「金色晃曜、宝飾煥爛」たる大仏を拝した、と『大唐西域記』にある。
 石は本のように語る。人類史を彩ったこの東西文明の出合いの一ページは、今回のイスラム原理主義勢力タリバンによる破壊によって完全に失われた。大仏だけではない。ガンダーラから派生したバーミヤン様式の仏像の数々、カブール博物館に収められていた美術品のほとんどすべて、遺跡の多くが失われた。
 ハッダにあったヘラクレス像、それはこのギリシャ神話の英雄がそのままの姿で仏像群の脇侍(きょうじ)として立ち、のちに東大寺に見るような金剛力士に変身してゆくことを明示する貴重な像であったが、これまた内戦中に失われ、今はわずかに写真でその姿をしのぶほかはない。
 人類の記憶である文化財の破壊、それを阻止しようとユネスコの松浦晃一郎事務局長、国連のコフィ・アナン事務総長をはじめ日本の平山郁夫ユネスコ親善大使ら多くの有志が懸命の説得に当たったが、タリバンの最高指導者オマル師は、この行為をイスラム法によるファトワ(宗教判断)であるとして停止しようとしなかった。
 確かにイスラム教は偶像崇拝を禁止している。しかし世界のイスラム諸国のほとんどはユネスコの提唱した「人類の共通遺産」という理念を共有し、他宗教の偶像を破壊していない。それどころか保護している。
 特に、タリバンを陰で援助していると非難された隣国パキスタンは、ガンダーラの仏像を手厚く保護し、仏跡の研究も進め、主要遺跡を世界遺産リストに登録している。
 世界最大のイスラム教国インドネシアが最初にユネスコに救済の協力を求めたのは大乗仏教遺跡ボロブドゥールであった。
 
 遺徳守っていたタリバン
 それではタリバンとは何か?
 今私の脳裏によみがえるのは、一九八四年、カイバー峠とかつてのガンダーラの主都ペシャワルの中間にアフガン難民キャンプを訪れたときのことである。
 それはおよそキャンプというようなものではなかった。七九年のソ連軍のアフガニスタン侵攻以来、山を越えて逃げ出してきた百万を超す人々がパキスタン側に与えられた土地の上に造り出した「市」であった。開かれた門から「難民たち」は平然として
隣の町へ買い物に出掛ける。カイバー峠を国境とする山の両側に住んでいたのは同じ民族だったのだ。
 実は同じ七九年初頭、東南アジアでも事件が起きていた。ベトナム軍がカンボジアに進攻し、この地で恐怖の的となっていたクメール・ルージュを交えた数十万の難民が、地雷の埋められたタイ国境を命からがら越えたのである。その時パリに居た筆者は東京の日本ユネスコ協会連盟、ユネスコ・バンコク・オフィスの密接な協力の下、いち早く「カンボジア難民児童教育計画」を立ち上げることができた。
 日本国内での一億円を超す募金のおかげで、三年後には国連管轄下の十のキャンプで、八割の児童が新築の小学校で母国語で編さんされた教科書を手にしていた。筆者のアフガン難民訪問には、あるいはここでも同じような教育援助が必要ではないか、という調査の意味もあったのだ。しかし、ここで私は意外な答えに接することになる。
 「学校はもうある。サウジアラビアの支援で造られた」
 そして案内された先、それがコーランに基づく「神学校」だった。
 この神学校で純粋培養された少年たち、すなわちタリバン(神学生たち)は、筆者が訪問した十年後の九四年、青年指導者として故国アフガニスタンに現れ、まずカンダハルを制圧する。近代装備のソ連軍に、十年に及ぶゲリラ戦を挑み勝利したムジャヒディン(聖戦士)たちは、そのころ派閥抗争に明け暮れ、山賊化していた。
 それと明らかに一線を画し、住民からの略奪を行わずイスラムの道徳と規律を守ったタリバンはたちまちにして人心を集め、三年を経ずして国の大半をその傘下に治める。主都カブールの制圧は、九六年九月のことである。九八年秋にはバーミヤンもまた彼らの手中にあった。
 
 全世界に対する遺恨に背景
 ではその神学生たちがなぜ今回の暴挙に出たのであろうか? 預言者マホメットの教えには異文化・他宗教への寛容もまた含まれていたはずではないか?
 人類の至宝とまで呼ばれる遺跡を、断固として爆破し去ったこの異常な決意の裏には全世界に対する遺恨がある、と私はみる。アメリカを筆頭とする西欧諸国がタリバンを、テロリストの黒幕と目されるオサマ・ビン・ラディンをかくまう原理主義者として包囲、経済制裁を加えて窒息させようとした事実がある。世界中のメディアも欧米と同じ論調を取った。
 その結果、既に三年以上アフガニスタンの事実上の政府であるタリバンには国連の議席を与えられず、孤立が深まった。政治に関係ない百万の民が海を持たないこの不毛な山国で飢餓線上をさまよっている。自らに向けられた非難に対する非難、無視さ
れることの拒否、これが今回の悲劇につながった、と私は考える。
 九七年、既に大仏破壊の警告があった。平山画伯の世界の主要博物館長と結んでの請願、ユネスコ事務局長のアピール等によってそれは阻止された。筆者も非力ながらそれに参加した。あれから三年半、世界は何をしたか? 何も変えなかったのだ。もし
タリバンが政府として国連やユネスコに認められていたら、今回の事態は避け得たはずだ。国際機関は何よりも対話の場であり、対話は必ずや理性を喚起するからである。
 
 深刻な危機にさらされた遺産
 「人類の遺産」という概念は六〇年代初頭、ユネスコの最初の文化財救済国際キャンペーンとなった上エジプトのアブ・シンベル神殿の救済によって生まれた。アスワン・ハイ・ダムの建設による水没から、このラムセス二世の神殿は巨大な上方移築作業によって救われ、次いでフィラエ島のイシス神殿が島ごと別の島に移された。
 一つの遺跡が単にその国のものではなく全人類の共有する遺産であり、従って全人類が協力して守らなければならない、というこの考え方は、革新的な新しい文明哲学だったのだ。モヘンジョダロもボロブドゥールもこの哲学によって復旧された。
 この考え方はさらに発展、七二年には自然環境遺産と結び「世界遺産条約」が成立する。日本はどうしたことかその批准に二十年を要し、ようやく九二年にこの国際条約に加入し、屋久島、白神山地、法隆寺、姫路城をまず登録。昨年の琉球王国遺産群を含め現在は十一の世界遺産を数えている。
 「世界遺産」という語は今や人口に膾炙(かいしゃ)し、誘致合戦は激しい。現時点で世界に合計六百九十カ所、うち文化遺産は五百二十九、自然遺産が百三十八、残りの二十三は両者の複合遺産である。これは数的に既に限界に達したとの声もある。
 一体これだけの建造物や自然が果たして順当に守られているのか?・実はユネスコの世界遺産センターには「危機にさらされている世界遺産リスト」があり、そこに三十カ所が挙げられている。例えばマリ共和国の黄金都市トゥンブクトウでは砂漠化が進み、アメリカのイエローストーンは観光公害に泣いている。都市化も多くの遺跡にとって大きな脅威となる。
 しかし、何と言っても最大の敵は内戦および民族間の紛争である。九一年、アドリア海の真珠といわれたローマ以来の歴史的都市ドゥブロニクは、旧ユーゴスラビア内戦の戦火により貴重な文化財の多くを破壊された。カンボジアのアンコール遺跡群は三十年来略奪と破壊の的となってきた。三つの宗教の聖都エルサレムは絶えず時限爆弾の状態にある。
 
 当事国政府の申請という欠陥
 ユネスコの世界遺産条約には一つの欠陥がある、と認めざるを得ない。それは登録の申請が当事国の政府からなされなくてはならない、という一項目である。このため、二十数年内戦状態にあるアフガニスタンは、一つだに世界遺産リストヘの登録を行っていない。そしてこの国をユネスコで代表する政府はもはやカブールに居ないのだ。
 ユネスコは過去にアンコール救済事業を、カンボジア政府の申請によらずユネスコ側からのイニシアチブで、特例として発足させた実績がある。今回はさらに未承認、政府との話し合いという困難があったにせよ、「文化財赤十字」の先駆的理念の下、行
動できなかったか、政治と宗教を超えた対応ができなかったか、悔やまれる。
 偶像破壊を語るとき、西欧諸国は自らの歴史を振り返る必要があろう。コンキスタドールによるマヤ、アステカ、インカの文化財の破壊は、トルコによるギリシャの神々の破壊を上回る人類の記憶の喪失をもたらした。ヨーロッパのキリスト教の歴史にも、宗教戦争の時代、プロテスタントによるカトリックの聖像破壊が記録されているのだ。モーゼやゾロアスターにさかのぼるこの異なる神、異なる文化への非寛容は、特にヘブライズムを根幹とする一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に顕著で、「平和の文化」ならぬ「戦争の文化」の中核を成している。
 
 憂うべき価値観の押し付け
 このことに留意するとき、九一年の湾岸戦争とは一体何であったのか? 日本では深い議論もなく政府はただちにアメリカに同調したが、モロッコの未来学者マーティ・エルマンジュラは、自国政府の西欧追随的公式見解にもかかわらず、ただちにこれを「第一次文明戦争」(The first civilizational war)と断じた。これに触発されたアメリカの戦略研究家サミュエル・ハンチントン(コロンビア大教授)は、その二年後「文明の衝突」をフォーリン・アフェアーズ誌上に発表、センセーションを巻き起こした。イデオロギーの戦争が終わった今、次に起こるべき戦争は文明間である、とするこの論文は、よく見ると文明=文化=宗教という単純な構図を持ち、しかも世界の諸宗教を先述のヘブライズムのモデルで考えている。
 私は、こうした思考が米国的正義の価値観を助長し、その価値観が世界を圧してゆく現状を憂う。絶えず国連安保理を利用し、それが意のままに動かないときは分担金も滞納し、他の手段に訴えるこの大国の行動を憂う。コソボの空爆はその一例だが、国連中心外交を標ぼうする日本政府は、国連決議を経ていないこの空爆をいち早く承認、その無思考ぶりを世界にさらけ出した。
 今必要なのは「文明間の対話」だ。異なる価値を信奉する者を犯罪者と決め付けたら、あとは「文明間の戦争」しかない。人類は今回の事件を肝に銘じ、世界各所で過去に起こり未来にも起こり得るこのような事態を二度と起こさない英知を涵養(かんよう)すべきである。
 (麗澤大教授、元ユネスコ文化事業部長) 「時事解説」2001.4.610866 時事通信社刊
 
なお、服部英二氏が目黒ユネスコ協会の広報誌「ショートニュース」にお寄せ下さったバーミアン遺跡破壊に関する第一報は174-1をご覧下さい。