頼朝の墓
旧道を歩いて頼朝の墓に移動、蝉しぐれとやぶ蚊の中で講義は続いた。墓の下段は白旗神社、その後に法華堂跡があるが、そこが本来の頼朝の墓だったようだ。それでは今の階段を上がった頼朝の墓はいつ誰が造ったのか、答は島津家25代重豪(しげひで)。重豪は、加えて1802年に「大日本史」に島津の先祖は源頼朝だと記入するように依頼、7年後に実現したとある。歴史は面白い。
北条義時の墓
「頼朝法華堂の東の山上を持って墳墓となす」との吾妻鏡の記述から発掘した北条義時の法華堂の面積は、2丈8尺の四角い母屋で幅4尺の縁がついた建物が復元できたという。実際は埋め戻されて、われわれは想像するしかないが、現地に立つと時空を超えて目に見えるようだ。義時は二代目の執権で承久の乱では後鳥羽上皇と争い勝利し鎌倉幕府の基盤を固め、武家政権確立の道筋を築いた実質的な創始者であるが、武家の頭領である源頼朝の法華堂と並び、それ以上の法華堂が造られ火災による消失後も頼朝と同様に再建された記録を見ると義時の権力の大きさが偲ばれる。
鶴岡八幡宮
最後に訪問したのは八幡宮。本殿回廊の修復作業をしている現場を見せていただいた。特に普通では見学できない漆塗り、銅板葺の現場をヘルメットをかぶり見せていただいたのは学習ツアーに参加したお蔭。宮大工、後継者の養成が問題になっている中で、20年ごとに修復する銅板葺の一部を技術伝承のためにわざわざ残すと聞いて感心してしまった。(鴇澤)
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