本論に入って、年表を基に、民間ユネスコのターニング・ポイントとしての三つの時代を話された。尾花さんはいま、来年、日ユ協連が刊行予定の『民間ユネスコ運動60年史』編纂にとりくんでいるが、"正史"には登場しない秘史について語ったこの日の講話は、面白かった部分はオフレコが多く、その全てをレポートできないのが残念。大要は以下の通りである。 第一は「1951年、日本のユネスコ加盟が承認されたとき」。
願望だったユネスコへの加盟が実現したのだから、民間運動はここで解散してもいいのではないかの声が挙がった。が、ユネスコ憲章前文にある「政府の約束だけでは平和は永続しない。世界の諸人民の誠実な支持を確保する平和・・・」を実現するためには、尚いっそう民間運動が大切との考えで存続がきまった。と同時に、占領下の日本で、ユネスコ運動に参加していれば海外留学や情報入手などのメリットがあるだろうと期待していた一部の人びとは、サンフランシスコ条約の発効と共に離れていった。
第二は「1963年の日ユ協連への国庫補助金が実現したとき」
これまでは会員の会費を中心に、全くの自主財源で運動を進めてきたのに対し、文部・外務両省と国会議員の支援で初年度1600万円の補助金が計上された。これは"光"の部分。但し事業への半額補助とはいうものの、実際には民間側が60%余を負担しなければならず、事務も煩雑。加えて70年安保を控えて国の管理体制が強化され、例えば、それまで自主参加でやってきた高校生ユネスコ全国大会も教師の引率が義務づけられたり。もっとも数年前からは政府の緊縮財政によって補助金はゼロになったが。
第三は「1984年のアメリカがユネスコを脱退したとき」
米国に続いて英国もユネスコに脱退を通告した前後が、最大の危機に直面した時代。米英に追随して日本も脱退かの風潮が政・官・財界を覆った。マスコミも同調し、新聞は記者クラブを通す情報を鵜呑みの形で報道、テレビ・コメンテーターも自らの足で調べず誤報を垂れ流した。民間運動は、その余波をモロに被った。企業からは維持会員をやめる申し出が、地方自治体に事務局をおくユネスコ協会の中には活動がやりにくくなる所も続出した。
その流れに抗して日ユ協連は米英両首脳に「脱退再考」を促す手紙を送ると同時に、日本の脱退を阻止する運動を展開した。日本が脱退しない方向へと舵を切り換えた動機の一つに、桑原武夫副会長による中曽根首相への説得があったという。ユネスコ本部の職員・相良憲昭さんによるパリから「朝日新聞」への投稿はマスコミの流れに反省を促したという。
(クイズ回答:ソ連、スペイン、北朝鮮) (鴇澤) |