平山郁夫会長を偲んで

平山郁夫会長は昨年12月2日にご逝去されました。鎌倉ユネスコ協会のスタート時から会長として就任され、日本中のユネスコ協会から注目と羨望のまなざしを浴びていた鎌倉ユネスコにとって"巨星墜つ"の感じです。

鎌倉ユネスコ協会を代表して佐藤美智子会長、石田喬也理事長、兵藤芳朗副市長、蓼沼誠一鎌倉美術連盟会長、尾花珠樹理事、渡利晴夫初代理事長、会田美奈子初代事務局長から追悼文を戴きましたので掲載します。

これからもお導きください
平山先生の文化勲章受章を祝って鎌倉の日中友好協会、美術家協会、美術連盟、ユネスコ協会等を母体として結成された“平山郁夫画伯を囲む会”は昨年10周年を迎えた。その記念行事として10月末に再度瀬戸田の美術館を訪れ、先生のご幼少からの並はずれたご才能に感嘆したのだった。現地では先生の好物だというタコめしを皆で賞味したり、先生がその場にいらっしゃらなくても、まるで御一緒のような幸せを感じていた。
これは鎌倉ユネスコの会員も同様に、先生がご多忙で御出席くださらなくても、先生を会長に戴いているだけで満足感を持って活動してきたのだと思う。
私たちはいつも先生を身近に感じていたから、突然の御逝去は信じ難く、初めて先生は生身の人間だったと不思議な感覚に襲われ、頭の中が真白になった。しかし、今少し時間が経ってみて、先生の大きな光の輪は消え失せることなく、以前同様に私たちをそのまま包んで下さっている事に気づく。先生はやはり永遠の存在であり、先生のオーラはこれからも私たちを導き続けて下さると確信している。 (佐藤美智子)

ご遺志を引き継いで
鎌倉ユネスコ協会の創立以来、21年間にわたり会長を務めてくださいました故平山郁夫会長にお仕えしました最後の理事長となりました。
昨年6月の理事長就任直後の頃は体調を崩されておられましたので、ようやく7月にご挨拶かたがた当協会の運営についてご相談するため二階堂のご自宅に参上しました。その時はお元気になっておられ、あのいつもの穏やかなお顔で迎えてくださいました。次が、ご自宅のアトリエに安置されたご遺骨の前でご遺影に対面させていただくことになったとは、悲痛の極みです。
その時のアトリエ正面の大きな壁には、平城遷都1300年を記念して描かれている平城宮の当時の雄姿がまだデッサン段階で残されていて、亡くなられる直前まで大作に向かっておられた画伯の気迫をひしひしと感じました。そして、あの想像を絶する灼熱のシルクロードに130回余りスケッチ旅行に行かれた、と云うすさまじいばかりの情熱は、ただ一つ、世界の平和への祈念によるものであられたことを思い起こします。そのご姿勢こそが故平山会長が残された私たちに対する厳しい叱咤激励として受け止め、会員一同、ご遺志を精一杯引き継ぐことを誓いたいと思います。 (石田喬也)

平山郁夫先生を偲ぶ
平山郁夫先生を昨年7月18日アトリエにお訪ねしたとき先生はお元気な笑顔で迎えて下さり、茶室でゆっくりお話をしてくださいました。先生はお話の中でこれからは絵を描くことに専念すると言っておられましたのに、こんなに早くお亡くなりになられ大変残念でなりません。そのときの穏やかな優しいお顔が今も目に浮かびます。ご自宅に弔問に伺いましたとき長女の弥生さんから、先生が鎌倉市の名誉市民になられたことを大変喜んでおられたと聞きました。
3年前、鎌倉ユネスコ協会の副会長であり、平山郁夫画伯を囲む鎌倉の会会長の佐藤美智子さんが中心になって、市内の文化団体に呼びかけて鎌倉市に推薦してこのことが実現したことは本当に良かったと思います。
20年、前北京の国立美術館で平山郁夫展が開かれた時、オープニングに同席した当時の鎌倉市長中西功さんは平山先生の偉業に感動して、鎌倉市で平山郁夫美術館をつくることを私に約束されましたが、実現できなかったことは今でも残念に思っております。
先生は鎌倉市に大変貢献されました。そして私達に多くの感動を与えて下さいました。本当にありがとうございました。心よりご冥福お祈り申し上げます。 (蓼沼誠一)

ユネスコ精神の真の体現者
二階堂のアトリエ。安置されたご遺骨のかたわらには、すでに完成しあとはタイトルと署名をいれるだけで遺された二作品がイーゼルに掲げられていた。退院なさったら、直ぐにも絵筆を取りたいので、右腕には注射しないでほしいと、先生は医師たちに頼んでおられたと聞く。「トルコ 日本年」の今秋、イスタンブールで開く「平山郁夫展」への出席を楽しみに語っておられた、つい数ヶ月前の平山先生のお声。黙祷を捧げる脳裏に立ち昇ってくるのは、先生の無念、そして先生を敬慕してやまない者たちの無念。
「政治の壁を超え、ユネスコを通してこそ可能になる平和・文化支援」をご信条に、国際的な人脈を総動員してお尽くしになった平山先生。広島の原爆ドーム、アンコール、バーミアン、高句麗古墳群・・・。いつでも先生は先陣を切って支援を提唱し、汗を流し、その最初の基金を寄託なさった。かけがえのない平和の使徒、ユネスコ精神の体現者を世界は喪った。
感謝と共に御霊のご平安を祈るばかりです。(尾花珠樹)

平山先生の思い出
平山先生のような方が会長になってくれたらなあという夢を描いていたプランには感激的出会いがあった。当時、先生は57歳位、人生の最も盛んな頃で芸大の美術学部長(その後学長を2度にわたり務められた)をされていた。尾花事務局長(日ユ協連)に1度頼んで見たらと言われ、ご一緒してもらい美術学部長室を訪れた。私は夢心地であったが、今度鎌倉にユネスコを創るので会長をお願いしたいのですがと、やっと言うと「ああ、いいですよ」と二つ返事、こう言われたらああ言おうなど考えてもいたがすべて不要であった。
尾花さんは他のご用もあったらしく、私は先に失礼をしたが、感激的出会いではあった。咄嗟の判断が出来るように、人格を磨いておくことが大事だと教えられた気がした。(渡利晴夫)

平山先生と鎌倉市
芸術、教育、国際交流など、広範囲にわたる平山先生の業績は十指に余ります。鎌倉市関連に限っても、鎌倉世界遺産登録推進協議会特別顧問、平和都市宣言文揮毫、鎌倉芸術館大ホール緞帳など、各方面でご活躍・指導を賜りました。
直接、先生と交誼を結ばないまでにも、多くの市民にとって、先生が自分と同じ鎌倉市に居を構えておられること自体が誇りであったのではないでしょうか。
平山先生は平成十九年、鎌倉市名誉市民の称号を授与されました。まさに文化都市鎌倉に相応しい名誉市民の誕生だったと思います。古都保存と文化財保護の大切さを力説された先生。その遺志を継ぎ、本市の歴史的風土を後世に伝えることが私たちの責務だと思います。(兵藤芳朗)

哀悼平山郁夫会長
鎌倉ユネスコ協会会長、画家、国際平和に貢献した著名な方、として不思議なほど、志高く清潔で、心優しい方でした。
鎌倉ユネスコ発足の頃、余りにご多忙な先生を煩わしてはいけないということで、連絡係を定め、事務局長の私も、会合以外にお話しする機会はすくなかったのですが・・・。
実は発足前、先生を会長にと必死の運動をした秘話を。
芸大に近い都立上野高校校長が生徒への講演を依頼すると、先生は快く引き受けてくださるというので、同道していただき、斎藤仁芸大事務局長(芸術研究振興財団事務局長)へお願いに伺いました。先生の奥様と斉藤氏がスケジュールを調整されていたのです。が、丁重に断られました。会長就任は別のルートでした。高校生には、本当にやさしい方だったのです。(会田美奈子)

 

 
 

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