紀元前古代ヌビア遺跡が、アスワンハイダムの建設で水没の危機に直面したのは1960年初頭のことだった。ユネスコはその保存を世界に呼びかけ、移築保存が実現した。インドネシアのボロブドゥル仏跡の修復が完成したのは1970年初頭。これもユネスコによる国際キャンペーンの成果だ。
その二つの成功から「人類共通の遺産」という概念が具体化し、1972年、ユネスコ総会は「世界遺産条約」を採択した。議長は萩原徹日本代表だった。
にもかかわらず、日本政府が同条約を批准したのは1992年。実に批准までに20年の歳月を待たなければならなかった。
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その間、民間が手をこまねいていたわけではない。条約の早期批准を促す運動に立ち上がった団体のなかに日本ユネスコ協会連盟(日ユ協連)があった。
平山郁夫氏が生涯その信条として提言実行した「政府が動かないとき、その壁に風穴をあけるのが民間の役割」を実行に移した事例であった。
具体的には1981年、神戸でのポートピア博の折、日ユ協連が開設したユネスコパビリオンのメインテーマを「救おう人類の遺産―危機の中の巨像たち」とした。
ここで当時の日本人にはまだ馴染の薄かった「世界遺産」キャンペーンを展開。期間中、パビリオンは300万人を超す来館者で賑わった。
そのとき日ユ協連が刊行した公式ガイドブック『SAVE OUR COMMON HERITAGE』の巻頭で副会長の桑原武夫京大名誉教授は「地球の品位」と題し
◆・・・・私たちは20世紀に生きており、高層ビルの林立する近代都市の美観を愛する。ただ、それのみでは人類の悠久の歴史が感じられず、地球の品位は伝わってこない。国家、民族を超えて人類の遺産を守ろう。と訴えた。
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鎌倉は日本政府が世界遺産条約批准後、最も早い時点で候補としてリストに仮登録した。
しかし去る6月に来鎌した松浦晃一郎前ユネスコ事務局長講演からも感じられたように、前途洋々というわけではないようだ。
たしかに個々の寺社はいずれも美しく整備されている。地霊のただよう静寂に身を置けば、鎌倉に住まう幸せ恩恵に感謝の気持が湧いてくる。
しかし、それは点であって面になっていない。一歩外に出ると、これが「地球の品位」と胸を張れるだろうかと、愕然とする。
具体例を挙げる紙数はないが、鎌倉ユネスコ協会も、改善すべき実例を提言し運動へとつなげていくアクションを起こすことはできないか。市民どうしの、あるいは行政との連帯も、共通の行動の中からこそ生まれようし、だいいちそれは世界遺産のみならず「鎌倉の品位」として、次世代への責任でもあろうから。
(尾花珠樹) |