鎌倉世界遺産登録対応特別委員会 筆子塚は江戸時代の寺子屋の子ども達の師匠への感謝を表わす記念碑です。11月20日(土)午前中に玉縄学習センター分室で、丸山泰世理事から、江戸の寺子屋と鎌倉市内に残る筆子塚の話を聞き、午後は内田洋子理事のガイドで玉縄城跡に近い植木の円光寺筆子塚と付近の地域遺産の寺社を訪ねた。 江戸時代の教育所は、幕府の学問所、各藩の藩校や、漢学・医学等の専門家の私塾があり、町や村では寺子屋が庶民教育の機能を担っていた。寺子屋は手習所とも呼ばれたがその数は江戸時代の統計がなく、筆子塚や古文書からの推定では江戸末期で1万5千〜3万位、相模の国でも千百を超えたという。 師匠も「忙しいみんなの親に代わって教えるのでしっかり勉強してください」と言い含めていたという。寺子屋の師匠は武士・僧侶・神官・医者・名主等で、教科書は往来もの(往復書簡綴りが原義)といわれ商売往来、百姓往来、庭訓往来、東海道往来等が使われた。 筆子達は仲間として師匠の基に連帯意識で結ばれ7〜15歳の在籍が終っても「筆子中」が構成された。東海道藤沢宿の後背地として栄えた地の円光寺筆子塚にも、「筆子中」の文字が刻まれ「師匠は尾張藩士、当地円光寺に十年余仮寓、漢籍・書を能くし子弟の薫陶功績は非常に大であったが、慶応元年帰藩した。門人の筆子連は親しい育成に感謝し、茲に謝恩の建碑をし遺薫はいつまでも忘れません」と筆恩極まれる辞の記載がある。 午後は、円光寺筆子塚に皆で供花をして寺子屋の原点を偲び、徳川家ゆかりの貞宗寺、玉縄城関連の諏訪神社、新井白石の碑や国重文の旧石井家住宅、民芸館のある龍宝寺を訪れ解散した。(丸山) |
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