193−10−11  活動報告ほか



 

ハイチ カリブの鼓動    映写会の報告
 


 

日時 2002.12.14   場所 めぐろパーシモンホール(小ホール)
主催:ハイチ大使館・目黒ユネスコ協会 共催:目黒区教育委員会 後援:(財)目黒区国際交流協会
 
 この映画をプロデュースした在日ハイチ共和国大使 マルセル デュレ閣下に改めて敬意を表したい。建国198年。かつて奴隷としてアフリカから移住した「土の色の肌の子孫」が ナポレオン軍を打ち破って独立した国。建国200年祭を控え、恵まれず教育も受けられない子どもたちのため、自ら一部出演までして作成した映画。
 
  映画はハイチ独特の強烈な個性の絵画のギャラリーをゆっくり映し出す。次いで「流鏑馬(やぶさめ)」のシーンと「土の色の肌の老人」が一枚の皮から太鼓を作るシーンが交互に紹介される。太鼓の音がゆっくりながれる。
 日本のシーンとハイチのシーンが何度も入れ替わる。新幹線、皇居のお堀端の日本で一番美しい道を流れるように走る自動車、鎌倉の大仏も。そして白砂に静かに打ち寄せる波、ポタンと落ちるココナツの実、豊富な果物を売る市場の雑踏。素朴なアニミズムの宗教行事も。太鼓の音、ときに激しくなる。
 
 一人の日本人が大写しで現れ、やがてピアニストである彼女がハイチの激しいリズムと共演していくシーンとなり、次第に映画のテーマが見え隠れする。異質な出会い。建国時に、言葉も違う多くの人が共に独立のため戦った歴史が語られる。
  64分の映画が終わりに近づく頃、明確な主張が語られる。
「他者の文化を知らない者は、自分が何者か分からない。・・・」「鎌倉でも、東京でも、大阪でも、そこを動かずに一生を送る人には、自分の真の姿が分からない。・・・」「文化とはそうしたものだろう。」ハイチと日本では、日の出ずる時、一方で日が沈む関係にある遠い国。いろいろな違いと、違わないものを、繰り返し繰り返し見せることによって、この言葉の意味は説得力を持つ。
 
  映写会のあと、目黒ユネスコ協会からハイチの子どもたちに教育支援金と会場で受け付けた募金箱が加藤会長からデュレ・ハイチ大使に贈呈された。(写真)
 

  ユネスコ講座 「アフガニスタンのいま――教育支援の現状」
 
 
   日 時   2002.12.12(月) 18:30〜20:00  場 所  めぐろパーシモンホール 小ホール
   講 師  長岡正哲氏 (社)日本ユネスコ協会連盟職員
 長岡氏はアフガニスタン、パキスタンを訪問し,現地の事情をつぶさに視察し,最近帰国されたばかりで,写真とビデオによる映像の迫力が,氏の説明と相まって聴衆を魅了した.
 お話は世界の識字率を皮切りにして始まり、世界の8億8千万人の非識字者の73%に当たる約6億人がアジアの人達であること、日ユ協連はアジアを主に教育支援活動をすることになったことなどを話された。
続いてアフガニスタンの現状について話された。  要旨は次の通り。

 アフガニスタンからパキスタンに出た難民が戦乱の終息を機に、急速に自国に戻りつつあるが、厳しい冬を迎えて住む家も無く、再びパキスタンに流れていくケースが目立つ。 1978年から続いた戦乱により、非識字率は実に98%。校舎,教材等全てが不足,教師の質、数も問題。
 戦時中は女子の教育は中止され,男子もコーラン誦唱が中心だった。地域間格差も大きく,国際機関の支援も都市に集中している。一方,インフラの整備が遅れていること、民族の対立,国外避難組と国に留まった人達との心のわだかまり,役所の権限,責任範囲が流動的で許認可手続きの遅滞,また、地雷の撤去,強盗など治安悪く日中のみ行動可能等々問題はあまりにも多い。 

 その様な状況の中で,日ユ協連はこのたび首都カブールに事務所を開設し,教育支援に本腰を入れることになった。 事務所はカブールの中心街で安全な場所。
 プログラム予定は,@校舎建設 A識字教育(子供〜成人)B教員養成 C職業実地訓練 D生活向上(保健、HIV,家族計画,薬草栽培等)など多岐にわたる。
 プロジェクト候補地は,@イスタリフ(カブールから60キロ程,伝統工芸イスタリフ焼で有名な,昔はバザールがあって賑わった近隣の中心)Aバーミヤン(ユニセフのテント学校もある)Bマザールダラ村。
 以上で写真映像による説明が終わり,引き続きVTRを見た。
破壊された街、家々、バーミヤンの石窟跡、シルクロードの昔ながらの羊飼いやラクダの隊商と荷物の積み過ぎによる横転トラックの数々、そんな中にも子供たちのこぼれるばかりの笑顔にほっとする。いくつかの質問があり講座は修了した。
 
◎支援金の贈呈
目黒ユネスコ協会は10月10日のユネスコ平和コンサートの収益金より100万円をアフガニスタン教育支援金として日本ユネスコ協会連盟に贈呈することを決め、この講座の席で加藤会長より長岡氏に目録が贈られた。                                         
  (文責 清水嘉男)



 

  カナダで「中国語」   勝岡重夫
 
 
 我が家の外国人の親友に、アメリカ・タコマ市在住のケイ・ジョーンズさんがいる。彼女は高校の日本語教師で、生徒を引率して毎年日本に来られるが、その都度彼女は拙宅に滞在する。

 5年前、家内と長女と一緒にケイさん宅にお世話になったが、ある日、みんなでカナダのバンクーバーへドライブ旅行した。市内観光のさなか昼食の時間になり、中華街へ行って食べようと決まった。大きな中華門をくぐった時、家内が“ねえ、お薦めの店、中国人に聞いてみましょうよ。”と言い出した。そこで 中国語を勉強し始めた私の出番?になった。前方へ駆け出していった私の視界に大きなインテリア・ショップのしゃれたサインが飛びこんできた。その正面に、初夏だというのに三ッ揃いの背広に大きなネクタイ、髪をきっちり撫で付けた、いかにもインテリ風の中国系のカナダ人?が立っていた。視線が合った。ものいいたげな私を見て、彼はにこやかに微笑んだ。私は近ずき、おぼつかない中国語で“日本から来ましたが、この辺のおいしい中国料理店を教えてください。”と、尋ねた。
 “おいしい店?”彼は瞬き、親切にその場所を指さしてくれた。何の料理がおいしいのか聞きそびれたが、喜び勇んで後ろの方から来るケイさん、家内と長女に手でO.Kサインを出した。バンクーバーで、それも習いたての中国語が役立つなんて! 思いがけないところで、まさに会いたいと思っていた人に遭遇したようなよろこびだった。
 
 バンクーバーに限らず世界いたる所で、中国人が活躍している。地球の総人口の約四分の一は中国人系だそうで、中国語をマスターすれば、なんと13億人以上の人々と交流できる計算になる。雰囲気のいい店で、おいしい中国料理を「爆炸」(baozha、お腹がはちきれんばかりに食べる様子)して、「口福」のひとときを過ごした。郷に入れば郷に従えと言うが、まさに郷に入れば語に従え、である。

 当初、ユネスコ中国語教室は藍暁先生(現在、米国・ロスアンジェルス在住)で始まったが、その後、蔵俐先生(学芸大学・博士課程在籍)に引き継がれ、現在に至っている。
ユネスコ中国語教室-毎週金曜日夜6時30分から。守屋教育会館にて。 写真はケイ・ジョーンズさん夫妻とともに

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