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2017年度~2021年度ユネスコカレッジ講座“伊達な文化 地域遺産の貞山運河を学ぶ”

■趣旨

2016年度「日本遺産」に認定された『政宗が育んだ “伊達”な文化』を記念して、地域遺産である貞山運河を4回シリーズで学ぶ講座を企画しました。なお2020年度実施予定の第4回講座は新型コロナ禍のために中止を余儀なくされ、2021年度に企画内容を一部修正して実施しました。

■貞山運河の概要

阿武隈川河口から北上川河口の海岸線を結ぶ全長約49㎞の「貞山運河」は日本最長の運河で、2つの運河と3つの堀の総称 です(3つの運河の総称とも言われています)。(ちなみに利根運河は約8km、小樽運河は約1.3km)
貞山運河は、日本一歴史の古い運河です。運河の始まりは伊達政宗公が岩出山から仙台に居城を移築し、まちづくりに着手したことで、慶長2年(1597)阿武隈川、名取川の整備と木曳掘の開発が始まり、1884年(明治17年)「北上運河」「東名運河」が完成する迄開発が続きました。その後、蒸気機関車の発達で交通手段が代わり役割を終えました。
約300年にわたる開削の目的は歴史的背景で異なりますが、その治世において各々役割を果たしました。流通機能衰退後は治水や利水に、最近ではスポーツ・文化イベントにレジャーとして活用。また運河に関連する史跡が観光スポットとして見直しされています。

第1回 貞山運河と阿武隈川の舟運

一日目: 2017年10月25日(水)  講演会 会場:仙台市戦災復興記念館

講演1:地域遺産の「貞山運河」を学ぶ ・・・・・・・・・・・・・ 宮城大学客員教授 佐藤彰男氏

―先人の偉業を現代に活かし後世に継ぐ―

初めに「貞山運河の魅力再発見協議会」が平成19年8月宮崎正俊氏(東北大学名誉教授)を会長して設立され、現地視察会、ホームページの開設、シンポジウム、「貞山運河の利活用指針」の策定等行い、また運河の魅力再発見と地域振興に向けた利活用の提言をしたことを紹介され、次に貞山運河の概要、歴史遺産・美しい環境(風景写真)、「貞山運河」の現状と課題等を講演されました。

講演2:伊達政宗公と川村孫兵衛の接点(歴史ロマン)・・・・・・・・・・・・・ 岩沼市史編纂室 阿部俊雄氏

―両者の運命的な出会いは何時か? 両者が主従関係を決断した時期は何時だったか?―

貞山運河の開削歴史は、備前岡山藩当主宇喜多秀家の家臣川村孫兵衛が政宗公に紹介されたことから始まる。また、講師の阿部俊雄家は代々、名取郡早股村字西須賀原(岩沼市早股)に住んでいた農家であった。慶長6年(1601)頃に同村早股村字五福檀に屋敷を造った川村孫兵衛とは隣同士になった経緯がある。慶長10年(1605)に川村孫兵衛が再建した熊野堂は阿部家で祀っていた石の祠であったとの口伝がある。川村孫兵衛の名前も阿部氏が子どものころから聞いていた。講演では政宗公と川村孫兵衛の出会いから早股村入植と政宗公の命で石巻に移住したその経緯と仕事について身近なお話をされました。

  • <佐藤彰男氏>

  • <阿部俊雄氏>

二日目:2017年10月26日(木)  現地踏査&講演

岩沼市千年希望の丘(木曳掘周辺)の見学からスタートしました。移送車内で、案内者の岩沼市議(仙台藩士会)佐藤一郎氏から、約400年前の大地震「慶長16年(1611)10月28日、慶長三陸地震津波発生」に関するお話がありました。その津波は千貫山の麓の松まで到達したと言われているそうです。政宗公は当時の10月下旬、駿府におられる家康公に初鱈を献上することから、漁師に船出を命じ、そのときに漁師が慶長三陸地震津波に出会い、大波に遭遇し千貫山の麓にある松にしがみつき助かった。政宗公は家康公に慶長津波の報告をされた。また、政宗公が仙台築城する時に岩沼の千貫松は大きな松並木で建築材料として伐採しようとしたら、海の灯台の役目をしているので、伐採しないように沿岸の漁師達から陳情されたとも言われている等、郷土に残る「千貫松伝承」をご紹介いただきました。

  • <千年希望の丘>

  • <佐藤一郎氏>

その後、岩沼から丸森へ移動し、昼食をとりながら丸森町阿武隈川船下りを体験しました。

  • <舟下り記念写真>

昼食後は齋里屋敷を見学し、敷地内で丸森町元教育委員長の斎藤良治氏の下記講演を拝聴しました。

講演3:阿武隈川の舟運~御城米輸送を中心にして~ ・・・・・・・・・・・・・ 丸森町元教育長 斎藤良治氏

―旧米沢藩の天領米御城米輸送に阿武隈川の舟運利用―

寛文4年(1644)上杉藩主綱勝が江戸で急死、断絶の危機に会津藩主保科正之の斡旋で嗣子、吉良善平治(2歳)を迎える。30万石が15万石に削封、没収(天領)「伊達・信夫・玉野村、屋代郷」されてその「御城米」を江戸へ輸送された。また、伊達政宗公が仙台城築城の慶長5年(1600)頃には材木が舟運されたとも言われている。

  • <講演風景>

  • <斎理屋敷>

第2回 貞山運河と四ツ谷用水

一日目: 2018年10月17日(水)  講演  会場:仙台市戦災復興記念館

講演1:貞山運河の歴史(御舟入掘・御舟曳堀・新堀)・・・・・・・・・・・・・ 仙台市生涯学習課 専門員主濱光朗氏

―御舟入掘・新堀・木曳堀―

貞山運河の概要と伊達政宗公が仙台城及び城下町建設にあたり阿武隈川流域の丸森・角田方面から切り出した木材を運ぶために、木曳堀を通って閖上へ、そして名取川を遡上して仙台市内の南材木町周辺まで運ばれた。城下町が栄え大きくなり、また石巻や松島湾に集まる米や物資を仙台に運ぶために「御舟入掘」を開通させ、「御舟曳堀」の開削と苦竹に舟溜りがもうけられた。明治に入り新政府によって、「御舟入掘・新堀・木曳堀」の3つが連結された。藩政時代の運河開削のお話をされました。

講演2:城下町仙台の上下水道雨水処理システム ・・・・・・・・・・・・・ 郷土史家 木村浩二氏

―城下町仙台の上下水道雨水処理はどのようにして考えられたのか―

・伊達政宗公が仙台に城と城下町を築くに市民の「生活用水」をどのように考えたのだろうか。
【キーワード】 川との高低差・段丘と段差の坂・機能と目的・地下水の涵養
政宗公の命により、広瀬川青葉区郷六(生瀬橋付近)から大崎八幡神社境内を流れ、東照宮付近の宮町東梅田川に至る約8.0kmが本流延長である。本流から城下町に枝線で分かれた。用水名は取水口から、四つの沢(谷)「針金沢・聖沢・鶏沢・へくり沢」を超えたので「四ツ谷用水」と命名された。講演では、四谷用水のネットワーク、四谷用水の役割、用水末端の痕跡と名残、町中に残る井戸~地下水の涵養などについてお話をされました。

  • <講演風景>

二日目:2018年 10月18日(木) 現地踏査&講演

<踏査コース>
広瀬川四谷用水取入口と取水施設(愛子付近)見学~大崎八幡神社境内~上杉山橋石柱等(バス説明)
~四谷用水と梅田川合流付近(東照宮付近)~御船曳掘跡地(苦竹界隈)~蒲生景観~名取閖上
~昼食「名取復興カナダメイプル館」~鴇﨑哲也氏講演(下段に記載) 名取日和山見学
~閖上土手の松並~閖上地域復興状況の見学

講演3:ゆりあげ~日和山と貞山運河(新堀)の津波~・・・・・・・名取市文化・スポーツ課 SG鴇崎哲也氏

―「ゆりあげ」の由来とくらし、日和山の地震と津波、貞山運河―
  1. 「ゆりあげ(閖上)」の由来は四代綱村公の命名との伝承がある。太平洋に面し地震と津波による災害は多く刻まれている。これまでに弥生時代(約2000年前)、貞観11年(869)の地震・津波、慶長16年(1611)の地震・津波、明治29年(1896)の明治三陸地震・津波、昭和8年(1933)の昭和三陸地震・津波、昭和35年(1960)チリ地震津波、そして平成13年(2011)の東日本大震災等繰り返されてきた津波の悲劇と、その都度、先祖の代から同じ悲劇を繰り返さないことを願い、建てられた津波記念碑がある。運河は近世初頭(1600年以降)から明治22年(1889)の間に、北部・中部・南部の各区間を3時期に分けて開削されている。
  2. 南部水路(閖上~阿武隈川河口の岩沼市納屋間:15km)木洩堀の改修 主に仙台城下への建設資材の運搬等利用
  3. 北部水路(塩竃市牛生~蒲生間:8km)開削寛文4年(1664)~寛文13年(1673)、御船入船と言われ御城米運搬
  4. 中部水路(蒲生~名取川河口藤塚間:10km)開削は明治初期で終え、新堀と言われ、この段階で約33kmが開通
    また、貞山運河の閖上字柳原上・柳原中他地内に、樹齢230年~250年以上の松並がある。仙台藩が遠州から取り寄せ、閖上浜と仙台城下を結ぶ川沿いの旧道へ植えた松並が震災にもめげず幾本かが現存している。

以上、講師から貴重なお話しと案内を頂きました。

  • <踏査風景>

第3回 貞山運河 ~御舟入堀と塩竈~

一日目:2019年10月16日(水) 講演  会場:仙台市戦災復興記念館

講演1:貞山運河とその役割 ―御舟入堀と塩釜を中心に― ・・・・・・・・・・・・・ 前塩竃市文化財保護審議会長 高橋守克氏

―藩政時代の運河開削と塩竈に貞亨の特令、野蒜築港から仙台築港まで―

伊達政宗公の仙台城・城下町の建設資材は供給地から舟運の運搬が目的で運河の開削に着手、その後、二代藩主忠宗公、四代藩主綱村公では仙台に蔵米・生活物資の搬入のため運河の開削が進められ、木曳堀(内川)の開削(広瀬川水系)、七北田川の改修、御舟入堀の開削、舟曳堀のり開削で「水上ルート」が成立(舟入堀~七北田川~舟曳堀)した。運河の開削で苦境にたたされた塩竈は「貞亨の特令」の発布で活気を戻し、蒲生は「舟溜と蒲生御蔵」で発展した。明治になると新政府の東北開発の巨大プロジェクトから野蒜築港の建設、北上運河、東名運河の開削が行われた。が、その後、台風による壊滅的な被害と財政難、鉄道の開通は舟運の衰退になった。
以上、貞山運河の変貌を話されました。

講演2:鹽竈神社の御由緒と綱村公 ・・・・・・・・・・・・・ 鹽竈神社博物館学芸員 主事 茂木裕樹氏

―鹽竈神社の縁起の成立と綱村公と塩竈―

鹽竈神社では、左宮(鹿島神宮)、右宮(香取神宮)、別宮(海幸彦・山幸彦)の三座を神様にお祀りしています。鹽竈神社の創建について、正確な年代は詳しく分かっていませんが、平安時代の『延喜式(えんぎしき)』によれば、「鹽竈神」を祀るためとあるのでその頃とも思われます。四代藩主の伊達綱村公は家臣らに命じ鹽竈神社の御由緒に関する調査に着手。元禄6年(1693)に公式の御由緒ある「鹽竈神社縁起」が完成します。更に御社殿の建て替えにも大きな功績を残しました。
塩竈は寛文13年(1673、延宝元年)頃に「舟入堀」が開発されたため荷揚げが激減します。運河の開発で仙台城下への輸送は便利になりましたが、荷揚げの仕事や陸路での輸送の仕事がなくなり塩竃は活気がなくなります。塩竃の市民は綱村公に実情を訴え、このような状況に対し、貞享2年(1685)に綱村公によって「貞享特令」が出されました。その保護政策のおかげで、塩竃は活気を取り戻し幕末まで続きました。このようなことから、後に塩竃の人々は藩に願い出て、大恩人である綱村公のお位牌を塩竃の東園寺に安置し、毎年法要をおこなってきました。戒名は「貞山(こうざん)」。六月二十日が命日です。綱村公と鹽竈神社のお話をされた。

  • <会場風景>

  • <高橋守克氏>

  • <茂木裕樹氏>

二日目:2019年10月17日(木) 現地踏査  ※ガイド:高橋守克氏、塩釜ユネスコ協会からのガイドご協力

<踏査コース>
蒲生干潟(蒲生御蔵跡・高砂神社「二代藩主忠宗公顕彰碑」跡・蒲生の日和山)
~湊浜緑地公園(弁天沼・薬師堂・湊浜≪古代湊史跡・御殿﨑⦅歌枕⦆≫)~塩釜市魚市場2F(海の駅) ―昼食―
~塩釜市内散策 東園寺:住職のお話「塩釜と綱村公との関わり」~御釜神社~裏坂
~塩釜神社:茂木裕樹氏の案内とお話「和田織部寄進の灯篭他」

  • <現地踏査スナップ>

第4回 石巻・藩政時代の北上川治水と明治政府の北上運河開削

2021年10月22日(金)  講演 会場:仙台第一生命ビル5階 仙台ユネスコ事務所=ZOOMによるオンライン講座=

コロナ感染予防の観点から、ZOOMによるオンライン講座とし、毎回実施していた現地踏査は行いませんでした。なお運営スタッフは会場で聴講しました。

講演1:北上川の改修と川村孫兵衛 ・・・・・・・・・・・・・ 石巻市教育委員会 泉田邦彦氏

江戸時代以前、広大な流域面積を持つ北上川は大規模な洪水や氾濫が繰り返されていた。登米伊達氏の流路変更や堤防造成の後、川村孫兵衛重吉による迫川と江合川の合流工事(1616年)や迫川・江合川と北上川の改修工事(1623~1626年)に伴い北上川河口流域での新田開発が進展し、米の生産量が飛躍的に増大した。更には北上川河口から盛岡まで船で遡上できるようになると南部藩・八戸藩・盛岡藩の米も石巻に運ばれ、石巻湊は奥州随一の湊として繁栄した。
また川村氏家系図や古文書を紐解くと、伊達藩が一定期間年貢負担を免除して新田開発を奨励したり新たな入植者を支援して定住化を図っていたことも読み取れる。二代目・川村孫兵衛元吉は害虫対策や洪水対策に尽力した。
川村孫兵衛重吉・元吉父子は仙台藩士として藩内の開発に従事し、役人として領内の諸問題の解決に当たった。川村孫兵衛による北上川改修が石巻の繁栄をもたらしたと言っても過言ではない。

  • <泉田邦彦氏講演風景>

講演2:東北の夜明け「野蒜築港と北上運河」・・・・・・・・・・・・・ 郷土史研究家 木村紀夫氏

明治新政府は大久保利通が中心となり「富国強兵」をスローガンに殖産興業政策を推進したが、特に東北開発を優先した。そのプロジェクトの中心になったのが野蒜新港開発である。野蒜に日本初の国際貿易港を作り北上川と阿武隈川を運河で連絡することで、東北を一大物流拠点とする構想であった。野蒜築港総額は当時の国家予算の約1%強に相当し、まさに明治政府初のビッグプロジェクトである。
プロジェクトは明治11年7月北上運河開発からスタートした。これは築港の際、野蒜内港の東西突堤や防波堤に大量に使用する築石は波の衝撃に耐えうる大きさと重さが必要で、北上川流域の稲井石の運搬路を最優先したためである。次いで野蒜港工事に着工し、明治15年10月に第一期工事が完了し内港突堤が出来上がった。しかし第二期工事前の明治17年9月に襲った台風で東突堤の大半が決壊。
東西突堤間が砂に埋まり船舶の出入りが出来ず、港湾機能が一挙に失われた。政府は調査の結果、復興を断念し明治18年6月に本プロジェクトは正式に打ち切られた。

  • <木村紀夫氏講演風景>

講演3:北上川治水と北上運河開削(石巻・東松島コース)・・・・・・・・・・・・・ 日本考古学協会会員 高橋守克氏

企画段階では、北上川の改修や野蒜築港等の講演で紹介された場所や遺構を現地踏査ならびに解説を聞く予定であったが、踏査ルート案に基づきスライドを使用して解説していただいた。

【石巻市】
普誓寺:川村孫兵衛の墓
禅昌寺:若宮丸遭難供養碑(石巻から江戸に向けて出発した船が消息を絶ったため建てた慰霊碑がある。
    実際はロシアに漂流し11年目に数名が故郷に生還した)
閘門:石井閘門と釜閘門

【東松島市】
大曲閘門:淀川との合流点
野蒜築港跡:煉瓦橋台、黒沢敬徳碑、突堤跡、悪水吐暗渠跡
野蒜船留閘門と東名防潮水門
(一部抜粋)

  • <高橋守克氏講演風景>