No.191−2


ユネスコ平和コンサートに想う
 
会長 加藤玲子
  最初のひと言
「私たちがユネスコ運動に協力出来るのはただひとつ音楽を通してだけ、もし可能ならぜひ役にたちたいの・・・」それは、浦田陽子さんからの言葉だった。結婚を間近に控えたヨルゲン・フォッグ氏も傍らで深くうなずいた。1974年の秋深い頃、わが家の食卓を囲みながらの一言だつた。
 「バングラデシュで 大洪水があつた。民間ユネスコ運動で何か支援が出来ないものか」日本ユネスコ協会連盟から、そんな呼びかけがあったのも、ちょうどその頃。即座にチャリティコンサートの目的が決った。「バングラデシュS O S・・」手書きのよびかけ文は、会員、知人に配布された。場所は、駒沢三越シルバーハウスの大広間。ピアノ・バイオリン・チェロの室内楽。ピアノはつつじヶ丘の浦田家から運び込み、記録録音はヘンリー広瀬〔高橋真理子の夫〕兄弟が、司会は夫加藤榮護が担当した。何しろ、目黒ユネスコ協会が、このような活動を手がけるのは初めてのこと、目黒ユ協第4代(故)原田三千夫会長の下で、私も必死であつた。会場費を少しでも安くしたいとの願いから、誰からの紹介もなく三越の社長宛てに趣旨を記して依頼状を書いたことも切実な思いからであった。1975年3月、目黒ユネスコ協会は、自ら働いてつくりだした対外支援の活動〔ユネスコ・コーアクション・世界寺子屋運動等の教育支援・奨学金・世界遺産保護・難病支援・緊急災害支援〕の最初のぺ一ジを開いた。陽子さんの一言から始まったこの活動は、いまの協会活動を支える柱のひとつとして欠かせないものとなっている。そして、目黒ユネスコ協会主催のコンサートは今回30回目を迎えた。
 
  ひとりひとりのちいさな心にむけて
 「めぐろパーシモンホール」は、目黒区民の大きな期待を背に9月に開館した。このこけら落としは、都響、園田高弘氏、柿の木坂在住の若杉弘氏を迎えての、実に内容豊かな演奏会であった。そしてオープニングシリーズ第2弾として「ユネスコ平和コンサート2002・ウイーン弦楽四重奏団」が組み込まれた。
 この地は、かつての七年制の府立高校・都立高校、そして学制の改革で都立大学として学徒の場であった。私ごとではあるが、3歳頃は、母の手にひかれての散歩コースであったし、小学校の1〜2年の頃は、駅から坂道を高下駄で登って来られる後の先輩(私は、都立大付属高校卒)の黒いマントの間を友達と逆に駆け抜けていくのが常だった。さぞ迷惑な少女であったろう。ところで、コンサートの2日後、目黒区にお住まいの山口良介氏からうれしいお便りをいただいた。
  「・・・ユネスコ平和コンサート、昨夜は、大ホールに参り、誠に気分の好い刻を過ごすことができました。 ・・・小生の宅は、府立高等学校が赤坂の旧府立一中傍に誕生してからやがて当地に移転し、畑の中に旧校舎が建って以来の長い歴史の中に過ごしてきました。・・・第二次大戦の中で九死に一生を得て、今日卆寿を迎え、あの懐かしくもある古びた校舎を偲び、今回このような見事なホールの中で、素晴らしい音楽に酔える幸運を何とも感慨深く味わいつくしました。・・・ 後略」
 
 「ユネスコ平和コンサート」は明日を担う子どもたちを招き、明日を託す人びとが支える催しである。私は、いくつもの世代が、そして異なる民族文化を持つた人びとが、音楽を媒体に共有するこの「時」をことさらに大切に思う。
 素敵なプログラムのデザインは、勝岡重夫氏(会員)によるものだが、その中で、私は、小さな心にむけて、いくつかの言葉を贈った。「ひとりぽっちをみつけたら、さそって仲間にいれましょう。美しいものに出会ったら、その感動を大切にしてください。それが平和を創るる心を育てるでしょう。」と。「平和コンサート」開催にあたり演奏者はじめ多くの皆様のご支援にあらためて深く感謝を申し上げる。
アンコールでは、期せずして、ホールのオープニングにふさわしく、目黒区内の高校の卒業生
           (目黒、駒場、都立大付属)の協力による世界初演の曲が披露された。(写真とも上記)

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