No.192                                         2002.11.27

アメリカンスクール生徒の「美術展」出品に寄せて
 
ご存じでしたか?
アメリカンスクールは 中目黒の 新しい目黒区役所の所にありました
〜 1927-1963 戦前・戦中・戦後の36年の間 
1902年に東京外国人学校という名で創立された現在のアメリカンスクールが築地、芝浦などを転々と移り、関東大震災にあい麻布に臨時の居留地を得た後、念願の新校舎設立の土地を中目黒に見つけ移転してきたのは、実に創立より25年の歳月を経た1927年の秋であった。最初の校舎は250人の生徒を収容できる木造であったが、すでに講堂、体育館、食堂、男女の寄宿舎、それに運動場やテニスコートなどを持つ本格的なものだった。1934年までには更に立派な校舎が建てられ、1936年度卒業生から緑の植え込みの卒業記念プレゼントがあり、その伝統は今でも受け継がれている。
1941年太平洋戦争の勃発と同時に学校は閉鎖され日本軍に接収されそうになるが、当時日本語の教師をされていた橋本清水(キヨミ)氏の献身的な努力のおかげで難を免れ、校舎はもちろん多くの重要書類や書籍なども全部生き残る事ができた。1927年の春、つまり中目黒校に移転する前年度に、前駐日アメリカ大使エドウイン・ライシャワー氏が我が校を卒業されている。右の写真の左端は、在校中のバスケットボール部の一員としての氏の姿である。
1963年現在の調布の地に移り今年創立百周年を迎えた我が校庭には、中目黒当時の鉄製の校門が今でも保存されていて往時を偲ばせる。駒沢通りを隔てた対岸の中目黒小学校の火事、坂を少し下った所の角にあった、教師や生徒たちの恰好な溜まり場であった日本蕎麦屋の事など、ついこの間のことのように思い起こさせてくれている。
             文  二森 騏 (にもり き)
(アメリカンスクール美術教師 1960−2002年)
写真・上  1927年秋 中目黒に開校時のキャンパス全景 下方斜めの道は駒沢通り 手前の白い屋根が中目黒小学校
  右上にテニスコート2面の一部が写っている 上方白線は野球のペースライン兼運動場
写真・右  1926年バスケットチームのライシャワー前駐日大使 (左端)
写真・下  現在も保存されている中目黒時代の門 上の写真の校舎の右側の駒沢通りに面して立っていた 
      この校門をくぐり石段を登り大きく左に曲がると玄関に導かれる      写真提供 二森 騏氏
 
目黒区役所は平成15年1月6日上記の場所、アメリカンスクールの後の千代田生命の跡地に移転します。
    

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