No.192-3


繪 と 鏡
 
文化活動委員会理事 瀬川智貴
 
 最近、小林秀雄の文章に成る程と肯(うなず)ける一節と出会った。「自然は人間の鏡である。人工の拘束から自由になって、画家は無私な眼で自然を見たいと考えるが、自然が黙々として映し出すものは、当の絵かきが、自ら無私と信じてゐる心の形に他ならない。」(近代絵画・モネ)
 まさに、氏の指摘する通り、私自身も無私になって風景を描いているつもりだった。しかし、その結果表れるものは、自分自身の鏡だとすると合点が行くことがある。
 今回のユネスコ展で、パステル画教室の或る生徒さんが、こんなことを呟(つぶや)いた。同じ教室で、同じモチーフを、同じ画材で描いていながら、どうしてこんなに違う絵ができるのかしら。そこには、上手(うま)い、下手(へた)ということを越えて、どうしても出てしまう、その人の性格とか心の内側とかいうことを指しているのではないかと受けとめた。意識しなくとも、いや無意識であるがゆえに出てしまう描き手の本性。しかし、それは他人(ひと)には判(わか)っても、本人には判らないものだから恐ろしい。いくら上手に見せようとか、格好(かっこ)よく見せようとしても、そんな作者の浅はかな考えは通用しないのだ。だから、そんな見え透いたことは考えず、素直に描きさえすればいいのだと自分自身に言い聞かせるのだが、これが一番難しいようである。                   目ユ協 ハードパステル画教室講師

目黒区役所新庁舎も かつて 学びの場であった
 
懐かしいアメリカンスクール、「きよみさん」と目黒ユネスコ協会前会長夫妻
目黒ユネスコ協会 会長 加藤玲子
 
 『きよみ(清水)さんが・・・  』父は、病状思わしくない橋本清水さんの様子を家族に伝えた。重々しい空気が漂った。その日のつい2〜3週間前、たおやかな美しい千鶴子夫人と、愛くるしい小学生の長女、まだ甘えん坊の長男とご一家を我が家にお迎えし、楽しいひと時を過したばかりであったのだ。昭和30年代半ば頃のことである.
「きよみさん」は、私にとっては、すてきなおじ様であったが、第二次世界大戦の最中、中目黒のアメリカンスクールを死守する覚悟で守っておられたことは、父母から聞きよく知っていた。父、加藤孟志(目黒ユ協元副会長・事務局長、都ユ連元理事長)と「きよみさん」は青年時代から親交厚い仲であったし、母、いさ子(前目黒ユ協会長)も同じ青山教会で青年時代オルガニストをつとめていたという。「きよみさん」の叔父上で日本のキリスト教界の重鎮のひとり(日本神学校初代校長)であられた川添万寿得牧師を二人は心から敬愛しており、そもそもこの二人は川添牧師の司式で結婚式を挙げたのだ。
 ここに、目黒ユネスコ美術展(アメリカンスクールの子どもの絵展に二森先生のご協力をいただいた)を発端として、新装となる目黒区役所、懐かしいアメリカンスクール、橋本清水氏、そして目黒ユネスコ協会前会長夫妻とのつながり・・・  なんと、なんと思いがけない縁のつながりかと、しばし思いにふける。
 「めぐろパーシモンホール」周辺が、学究の場から区民の憩いの場となったが、目黒区の新庁舎もまた、かつて国際的学びの場でもあったことを、そして、日米の間でひとりの目黒区民がはたした業をあらためて記憶にとどめたい。
写真・上 橋本清水氏  写真・右 加藤孟志,いさ子夫妻
橋本清水氏が戦時中、アメリカンスクールを日本軍の接収から守ったことは1ページの二森氏の記事中にもあるとおり。氏の功績をたたえた特別編集のアルバムが全校を挙げて作成されたが、氏に贈呈される直前に召天されたとのこと。
                                         二森氏談・橋本清水氏写真提供も

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