No.197                                     2003.5.14

原点をみつめて
目黒ユネスコ協会会長 加藤玲子
風薫る5月、「慰霊祭」が執り行われ、私は、今年も参列した。主催は、海軍兵学校68期生。この期は、昭和12年入学、15年卒業で、その後わずか1年4か月後に第2次世界大戦が勃発した。この大戦で同期生300人の内、約200人が空に海に陸に若い命を散らした。恒例の慰霊祭は、今回で第37回。終戦後しばらくは、この種の催しは、世間から憚られるものであり、開催できなかったという。今年、齢84歳の期友、その遺族ほか関係者相集い、磨きぬかれた広い廊下に導かれ本殿に座した。すだれ越しにもえるような若葉がまぶしい。静寂な杜に柏手(かしわで)が響き、お神酒(おみき)、海の幸、山の幸が霊前に供えられる。私は日本の文化の一端に触れる思いで、素直な気持でその席のひとりとなった。私ごとで恐縮だが、叔父、須永孝は、この海兵68期生で戦争末期にUボートを引き取るためにドイツに赴き、キール軍港から日本にむけて出港し、帰途深海に消えた。戦死の報を親から受けた私の幼い心は、引き裂かれるような悲しみと怒りで満ちた。1944年のことであるが、それは、いまなお強烈な衝撃として鮮明である。戦争等によってどれほどの人びとがこの思いに出会ったことか。私が「ユネスコ運動」に関わる原点は、ここにある。
 この年、1944年、連合国文部大臣会議では、国連の専門機関として恒久的な「教育文化機関設立」を決定し、あくる1945年に「ユネスコ」が設立された。日本の敗戦後、平和を願う日本国民は、各地で「ユネスコ」の意図に共感し民間の立場でこの運動を支えようと「民間ユネスコ運動」が芽生えて、西に東に「ユネスコ協会」〈当初は「ユネスコ協力会」〉を発足させた。「目黒ユネスコ協会」もその一つで、1954年10月3日、目黒区役所の区議会議事堂で呱々の声をあげた。そして昨秋、関係各位のご尽力を得て、わが協会に独立したすばらしい事務局が「五本木小学校内」に誕生した。目黒ユネスコ協会は、設立に先だって、小学生を対象とした「ユネスコ学校」を開校したが、その場所も「五本木」であった。半世紀をへて奇しくも同じ場に帰ってきたのである。そして、今、青少年への活動が求められている。
 第50回の総会は終った。新体制のもとに事務局では、試行錯誤ながら「平和」への建設的な動きが新たに胎動している。拠点ができたことで多くの人の手が得られ、多くの人の声が聞こえ、その輪が段々と広がりをもたらしてきている。感謝である。今年もまた先達の蓄積を宝として、歩みをすすめ、片や新しく創り出す喜びを共に分かちあいたいと願う。そして「平和づくり」のための原点を、ひとりひとりが見つめなおす年としたい。
 


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