No.198                                            2003.6.11      

明日へ・・・その4  
創設の時代(1954年〜1967年)
目黒ユネスコ協会会長 加藤玲子

「目黒ユネスコ協会の設立」(2003年1月号)に続き、来年の目黒ユネスコ協会50周年にそなえて、引きつづき私たちの協会の足跡を辿ることとする。
「創設の時代」、この時代に目黒ユネスコ協会の主な活動の柱組みが構築された。たとえば、「ユネスコ語学教室」は、初代会長、赤松祐之氏(元外務省参次官・ラジオプレス社顧問)が自ら指導にあたられた「時事英語教室」(目黒区教育委員会と共催)を皮切りに開催された。「ユネスコ講座」(教委共催)も、横田喜三郎,茅誠司、田辺繁子,土岐善磨、香取正彦、村岡花子、勝本精一郎、上田康一、松本重治、高橋義孝、富岡丘蔵、片桐顕智、磯村英一、村山雅美、亀谷了、在日大使館関係ほか多くの講師を迎え、国際事情・人権・文化について、また、「日本語」に関しては、釘本久春(当時、東京外語大教授/日本語)の企画で「ことば」の講座が開催されている。
小・中学生を対象とした「目黒ユネスコ学校」は、「子どもたちの心の中に、ユネスコの精神である国際理解と、心から文化を尊び、平和を愛する気持を育てること」を目的とし、五本木幼稚園及び五本木小学校を借用して開校した。講師8名、生徒50名、毎日曜午前。内容は、音楽・バレエ・英語・自然科学などで、夏季学校や学芸会など年中行事も盛んだつたようだ。
ほかに区内小・中学校へ「浮世絵巡回展」など幼い心へむけての働きもみられる。
「目黒ユネスコ美術展」「美術教室」(デッサン・陶芸)もこの時代からはじまった。美術活動を推進された横江嘉純氏(日展委嘱作家で、氏の作品「女神の像」は、めぐろパーシモンホール脇に置かれている)は、「美術は、世界の人びとが愛するものであり、理解できるものである。芸術はことばと同じように人びとの心を結ぶものである。」と説かれた。美術作家は相集い第1回美術展を1957年に開催。出品者/香取正彦・横江嘉純・小川智・古茂田守助・井高帰山(初)・安原喜明・井高帰山(当時/宏)ほか。
第2代会長山本為三郎氏(朝日ビール創始者・当時社長)は、柳宗悦の提唱した「民芸運動」へ惜しみない支援をされた方で、この期には、民族文化理解のための催しが盛んとなった。たとえば、「八王子の車人形」「沖縄の踊り」「あやつり人形・竹田人形座」「神田ばやし」など。なお目黒ユ協創立10周年記念会では、当時中学生の浦田陽子さんが「月光の曲」を弾いている。
第3代会長水上達三氏(当時三井物産社長)は、現在、青年活動で協力関係にある駒場留学生会館を所管する(財)日本国際教育協会会長を歴任された方。在任期間は2年と短かかったが、この間には、「民間ユネスコ創立20周年大会」「同20周年記念美術展」(1996年・京都ユ協と目黒ユ協共催)が東京で開催された。なお、ユネスコ活動に関する法律により、目黒ユ協の事務局は、当初より目黒区教育委員会におかれていた。
 時代背景によるが、創立当時 、女性の役員は、監査として岡見ふく氏(現名誉会員)お一人であった。まもなく蓑妻松華氏(人形作家)が加えられ、次に加藤いさ子(第5代会長)の参加となる。蓑妻松華氏の作品の一つ「童子」は、いま事務局の飾り棚で、会員を見守るように凛として佇んでいる。

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