No.200                                            2003.9.10 

たった一枚の紙から…
目黒ユネスコ・ショートニュース200号!
目黒ユネスコ協会会長 加藤玲子
『会報発行の要望がありながらも、なかなか実現できなかったが、昭和47年度後期に、短信として発行することに決定、加藤孟志副会長に一切を一任し、編集は加藤いさ子理事が主として担当。早速、昭和48年2月23日に初号が発行された。待望久しとばかり会員間におおきな反響があり、特に老境にはいられた方、病床にある会員、遠隔の地にある方がた、その他会員の音信が活発に寄せられ好評。ますます豊富に、多彩に展げられてきた活動状況がいち早く報ぜられ、会員間のコミュニケーションに大きく役立っている。』(「目黒ユネスコ20年のあゆみ」より)
 目黒ユネスコ・ショートニュース第1号、それは、たった1枚、体裁はB4版の横書きだった。原田三千夫会長時代のことである。
 当時の発行回数は、年4回程度。当初は、原稿を駒沢通り沿いの印刷屋さんに持ち込んだ。昭和50年から私が編集を受け継ぎ(事務局長時代)、時には、急ぐあまり、手書きのカツト入りの紙面つくりも取り入れながら号をかさねた。そして、昭和50年代後半、日本語ワープロの台頭を即座にうけいれ、紙面は16ドットのワープロで処理された。
 ここに、50 (昭和60年7月20日発行)をみると、「ユネスコ公開セミナー 〜教育と情報化社会〜」の記事がおどっている。これは、当時としては、画期的な活動として世間の注目を浴び、「日本経済新聞」にも大きくとりあげられた。内容は、@教育とコンピュータ(鳴門教育大:大隅紀和氏) A日本語ワードプロセッサの誕生(富士通:神田泰典氏) B情報化社会と日本の教育(文部省社会教育局:橋本幹夫氏) Cメディア教育・21世紀への展望(東京工業大学:坂元昴氏) Dニューメディアと生涯教育(放送教育開発センター:浜野保樹氏)。なお、セミナーPART2として@ワープロ講座 Aパソコン講座を設けた。この講座を機に会員となられた方も多い。
 100 (平成5年10月24日発行)は、ピンク色でB5版の短信だ。第36回美術展。写真家河西裕氏のモヘンジョダロ遺跡の講演のお知らせが掲載してある。そして、目黒ユネスコ協会として、最初の「キャンペーンカード」への取り組み、河北亮青年制作の『プラン〈犬の名)シリーズ』刷り上りの記事もみえる。彼は、難病を抱えながら絵筆を持ち続けていた青年であつたが、その後20歳で昇天した。現在、目黒ユネスコの扱うポストカードは種々あるが、力ードによる純益は、その後も河北青年の遺志をくみ、地球環境保護または、難病救済のためにあてている。
 150 (平成10年11月10日発行)は、すでに現在のスタイルに変身しており、タイトルのデザインは グラフィックデザイナー、勝岡重夫氏によるものだ。素人の試行錯誤のショートニュースが、やっと体を呈した感だ。内容も「世界寺子屋運動」「ジンバブエ体験記」(青年会員山本寛子)「ユネスコの基礎知識」(目黒ユ協顧問:田島重雄氏)。フレンドシップメンバーとの交流活動、活動日誌、そして、おしらせなど多彩だ。編集担当の勝岡由紀子氏のもと充実した内容がもりこまれている。前期までは、限られた時間と紙面で、どちらかというと「お知らせ」中心であつたが、これも組織改革により委員会を設け、各委員会が活動を担当する体制がととのったことによる賜物と思う。さらに 日本語と平行して発行する『英文広報』にもふれなければならない。こちらも試行錯誤の末、現在の形で、内外のユネスコ関係者、在日各大使館に送付し、目黒ユ協のみならず「日本の民間のユネスコ運動の広報」に役立つているものと自負する。現在日英年間10回発行のショートニュースは奥沢行雄広報活動委員長のもとに和文担当6名、英文担当11名が日夜尽くし、さらに、月1回の発送作業は、事務局スタッフほか研修活動参加会員の協力によるものである。ショートニュース第200号を期に一通のショートニュースが語る折々の情報の意味の大切さと、たずさわる多<の会員の努力、そして計り知れないこの紙媒体の役割に、皆様と共に思いを新たにしたい。
 

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