No.202                        2003.11.12 

明日へ・・・その6 
発展の時代 (1975年-1986年)
青少年対象活動のいろいろな「カタチ」
 
目黒ユネスコ協会会長 加藤玲子
『縄をなうときは、新しい藁(わら)を差し入れながら長く長くするでしょう。ユネスコ活動を次代に託すためには、常に新しい人材を求め、若い世代にかかわらなければ…』とは第5代加藤いさ子会長のいつもの言葉であつた。
 第二次世界大戦後、区立八雲小学校母の会会長、NHK「PTAの時問」の司会、月刊誌「日本PTA」主幹、東京都社会教育委員、青少年委員、子ども会の育成と、もっぱら社会教育の立場から青少年へむけての活動に関わってきた加藤いさ子会長がこの期にまず手がけたのは、次世代の育成であった。
 それは、「子どもキャンプ」「青年ハイキング・つどい」青年をリーダーとして「年少会員と日本人学校児童との文通」、「在日留学生(中南米からの日系青年および駒場留学生会館寄宿生)と日本青年との交歓」「海をわたる児童画展(西ドイツ等と目黒の子どもの絵画交流)」(国際青年年記念プログラムで目黒区、同教育委員会と共催)、「国際青年交流セミナー」「ユネスコ・リトルクラス」等の開催。そして1986年には、中国残留邦人二世、三世のための「ユネスコ学校」の開設等々であった。
 原田会長時代の終わりに、形骸化していた青年部を廃止し、ブロジェクトチームから青少年活動委員会に移行したが、試行錯誤しながらの青年活動は、それぞれの時代を担う青年会員の指向により、活動内容を少しずつ変化させながら展開していった。
 前期は、佐藤健(平林)理事を中心に、プログラムをサポートする若い母親たちの活躍がめざましく、主に年少会員対象の「キャンプ」など。
 中期は小菅俊夫理事をリ一ダーに仙波、青木、神尾、大野さんたちによる青年ハイキングや、一泊研修。そして、年少会員対象の「日本の小学生と海外の日本人学校の小学生との文通や、かべ新聞作成」「ユネスコ・子どものつどい」や「海をわたる児童画展」など、子どもたちへの活動を支えながらの青年活動。
 1985年の国際青年年前後からは、上野、三沢、福地、反田、赤坂、栗林さんたち青年群によって「ユネスコ青年フェスティバルIN MEGURO」「ユネスコ青年国際交流セミナー」など企画し成功をおさめた。1984年度は、6人の青年たちが「青年の船」などで海を渡ったが、この時期からは、青年活動が同世代対象にと移行していく。
 駒場留学生会館寄宿の留学生との交流もこの頃から始まった。留学生会館を会場にしての交流、和菓子屋「ちもと」の店主石原勇氏もボランティアで参加、蒸器持参で「さくら餅」をみんなでつくったり、ラングーン大学に辞書を送る運動を共に手がけたり、留学生会館オープンハウスの企画に参加したりなどである。

★目黒ユネスコ協会の活動は、ユネスコの心を幼い子供たちに、との願いから『目黒ユネスコ学校』からはじまつたが、時の波により、この時代、当初の形態の『ユネスコ学校』は閉鎖されていた。
 ★小菅俊夫理事のリーダー時代『目黒ユネスコ青少年ニュース』が創刊された。長くは続かなかったが、記憶にとどめたい。
 


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