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鎌倉ユネスコ会報の鴇澤武彦編集長

本誌「鎌倉ユネスコ」が、この4月発行で100号を迎えた。
なんと、そのうちの13号から100号まで企画・原稿や広告依頼など編集のすべてを担って鴇澤武彦編集長きたのが鴇澤編集長。年月にして22年間。時代ごとによき協力者があってこそとは言え、この実績への貢献は祝し感謝して余りある。 「僕の生きがい。支えているのは使命感かな」と振り返る編集長の背景には何が?

9歳、満州で迎えた終戦

軍医だった父上の勤務地・韓国大邱で生まれ、敗戦は満州で迎える。国民学校3年生だった。翌年11月引き揚げ帰国。無医村医師になった父と共に高校卒まで長野県で過ごし、上智大学文学部新聞学科に進学。ジャーナリズムを専攻するも作文は得意でなく「新聞社よりも企業向き」との指導教授の奨めで博報堂に入社。合弁会社マッキャンエリクソン博報堂への出向4年間でアメリカ式広告ビジネスを学び、本社に戻ってからは花王石鹸・トヨタなど大手広告主のAE (アカウント・エグゼクティブ)として活躍。

語り継がれる喪主挨拶

定年後の軸足を鎌倉ユネスコでのボランティア活動へと心に決めた1996年3月、定年2ケ月を前にして最愛の夫人・祐子さんが肺癌で急逝。カトリック雪ノ下教会ご葬儀での喪主挨拶「私には過ぎたる女房でした」は、式に参列した人びとの間で、いまでも語り草になっている。「私も自分の仕事をしたい」と願い出た夫人の志を尊重。単身中国に渡った夫人は鎮江市などで3年間、日本語教師として、多くの教え子を育てた途上での突然の召天に、フェミニスト鴇澤さんならではの言葉が挨拶に添えられたのだった。
中国側も夫人の献身に謝し、鴇澤さん家族を招じ、同年11月追悼慰霊祭を鎮江で挙行。式典後、長江への散骨、更に、長江最下流の美しい島、焦山公園の花園に記念碑が安置されており、ここで桜の木の記念植樹をおこなったという。

鎌ユ活動記録誌をめざして

定年後、夫人とのドライブを夢見て購入した新車の出番もないままに、以来鴇澤さんは雨にも風にも負けず、バイクで会務のために市内小路を走り回っている。
4年間にわたる理事長時代には「ユネスコ世界寺子屋運動」の支援先ペルー[1998年]やブラジル[2000年]へのスタディ・ツアー団長を務め、現地との交流は現在もつながっている。
創刊当初はB5判活版印刷だった会報を経費節減めざし33号から現在の形に切り替えた英断。編集方針は「鎌ユの活動記録誌」。鎌ユ20周年記念誌『鎌倉ユネスコ物語』に詳細な年表を収録できたのも、その方針が生きた。益々のご活躍を。(文・尾花・写真・関根)

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