スポットライト

持続可能な社会に向けての舵取り

昨年12月に翻訳本が発行された途端に、トマ・ピケティの大部の著作「21世紀の資本」が米国に続けて国内でも大ブレイクになった。金持ちからの今の格差が、自分の働きの悪さのせいでなく、自分にはいかんともしがたい親の代からの資産によるものだとして、累進資産税の実効性はともかく、妙に納得させる効果があったためと思われる。日本のほとんどの読者の反応はその程度であるが、最近、世界を恐怖に陥れている残忍極まりないISに世界各地から若者が次々と加わるのは、生きることに精一杯の極度の貧困に追い詰められていることからの豊かな人たちへの強いねたみと恨みのゆえであるように思える。これは、西欧側が世界の隅々まで資本主義によるグローバリゼーションを浸透させてGDPを高めるのに邁進してきたことに対する強烈なしっぺ返しであり、今、世界は持続的な社会に向けての舵取りに迫られている。

社会主義でも資本主義でもなく

この事態は、日本でノーベル経済学賞に最も近いと言われてきたが昨年9月に惜しくも他界された偉大な経済学者、宇沢弘文氏がご存命ならば、ご自身も進講されたローマ法王ヨハネ・パウロ二世からの1991年5月の第二の回勅「社会主義の弊害と資本主義の幻想」のまさに現れであると評されることであろう。回勅(レールム・ノヴァルム)は世界の秩序維持にとって今何が最重要かについてのローマ法王からの問題提起であり、丁度100年前に出された第一の回勅「資本主義の弊害と社会主義の幻想」とは対照的、社会主義への大いなる期待とそれへの幻滅を経て、社会主義国が資本主義に雪崩を打って移行した先は、期待に反して社会の不均衡が激しい極めて不安定な世界になっている、ということである。<「二十世紀を超えて」宇沢弘文著、岩波書店>。

視点を逆転する経済学

経済学はもっぱら経済成長を目的としてきたが、上記の混迷に直面して、これまでは異端とみなされてきた制度主義が再評価されるべきである。制度主義は、19世紀の終わりに米国のソースティン・ヴェブレンが唱えたもので、経済制度は、人々が生活する自然および社会的環境に合わせて作り、維持してきた社会制度の中の一つとして位置付けるべきであるという考え方、従って経済成長を追求する過程で生じる環境破壊や貧富格差の問題には経済成長の代償として諸対策で対応しようという通常の視点からは全くの逆転である。
制度主義の代表的な経済学者で、かの「不確実性の時代」の著者、ジョン・ケネス・ガルブレイスは、「ゆたかな社会」(鈴木哲太郎訳、岩波書店)他で現代資本主義の金融政策、環境対応などを制度主義の視点から鋭く批判している。

社会的共通資本のあり方

宇沢弘文氏は、自動車が排気ガス公害以外にも、歩行者に歩道橋を渡ることを強制し、また自動車事故に遭遇する危険を高めるなどで歩行者の権限を侵害していることに対して、自動車保有者に相応の費用負担を求めるべきである、という論を展開された<「自動車の社会的費用」、岩波新書>。その発展として、実現を目指す制度主義においては自然および社会的環境を “社会的共通資本”と呼ぶことで、社会のみんなが共有する資本であることを明確にした後に、個々の共通資本の管理のあるべき姿について提言された<「社会的共通資本」、岩波新書>。

社会的共通資本は、土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境、道路、上下水道、公共交通機関、電力、通信施設などの社会的インフラストラクチャー、及び教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本、という三つの範疇で構成されるとする。いずれもが一人ひとりの人間的尊厳を守り、市民の基本的権利を最大限に維持するように管理されなければならない。そのために、それらは決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならず、職業的専門家によって、専門的知見に基づき、職業的規律に従って管理・維持されることが要請される。

ESDを支える経済制度として

理想的に過ぎるように見えても、このような社会的共通資本の環境のもとで市場経済が展開されるならば、より安定した社会の実現が期待できるであろう。野放図な経済成長を抑制してでも、その構築に真剣に着手する時期になっているのでないか。ユネスコ活動で展開しているESD(Education for Sustainable Development:持続可能な開発のための教育)と手を携えて取り組みたい。(石田喬也)

鎌倉ユネスコの活動

お問い合わせ

ご入会方法

賛助法人会員

会員専用

プレス情報

Home