Spot light
~富士山に想う~
「一富士・二鷹・三茄子」 正月にみる目出度い初夢の諺であるがその富士が2013年6月に世界文化遺産―信仰の対象と芸術の源泉―として登録された。
富士山はその美しい姿から様々な創作活動の題材となってきた。「竹取物語」や「古今和歌集」「伊勢物語」など古典をはじめ様々な文学・詩歌に富士山が描かれてきたが、この度は絵画に絞って触れてみたい。
現存する最古の絵は「聖徳太子絵伝」で平安時代中期とされているが、私たちにとっての馴染みは江戸時代に製作された葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」であろう。様々な場所から富士山を描いているが中でも北斎の「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」は世界的にも有名である。
近代になっては横山大観(1869~1958)の富士が質量ともに群を抜いている。その数1000点位とされているがその内約500点は1936年から1945年に集中している。そもそも大観が最初に富士を描いたのは1902年(明治35年)で立山から描いたというが、その絵は残念ながら今は行方が不明である。
私が直接目にした展観で印象に残ったものは大観の生誕120年を記念して開催された横山大観「海山十題」展である。1989年、三越で開催された。もともとの初展観は1940年、紀元2600年奉祝記念展覧会として開催されたもので「海十題」を三越で「山十題」を高島屋でと日本橋を挟んで同時開催された。お互いが事前に販売した多額な50万円は陸・海軍省に献納され軍用機「大観号」になったと聞く。その時の「山十題」はその殆どが富士であったし「海山十題」の素晴らしかったこと今でも鮮明に思い出す。
因みに1989年の展観での出品は原画16点、複製画4点(山種美術館蔵)であった。既述のように大観はこの時代多くの富士を描いているが中でも1943年の「生気放光」と1953年、晩年の「霊峰飛鶴」が特に好きである。
富士山と言えば奥村土牛(1889~1991)も見逃せない。
大観から頂いた書「天霊地気」を終生座右の銘にしたという、この作家には富士の表現は将に打って付けであった。過去に何回も富士を描きながら、それでもなお現場に行かないと絵が描けないと、その都度箱根に足を運ぶ。直接自分の目で、身体で霊峰富士の「気」を感じ画面に映すことを試みた、その結果が「土牛の富士」であった、と言える。1982年の「富士宮の富士」は一見綿帽子のようであるがとても印象深い。
また1988年、高島屋で開催した 岩橋英遠(1903~1999)の「富士を巡るー山と雲」展も忘れられない。北海道の大自然に生まれ育った岩橋英遠が雲との繋がりを幽玄な富士で見事に表現していた。30年近く経った今でも脳裏に鮮明である。
鎌倉ユネスコ協会の初代会長を20年間に亘り担われた平山郁夫日本美術院理事長(1930~2009)にも「暁春橘富士」(1998)はじめ何点か富士の作品があるが、本年6月23日まで八ヶ岳南麓の平山郁夫シルクロード美術館で開催した「平山郁夫 日本の風景を描く」特別展には「小泉富士」(2005)が展示されていた。
落葉のカラマツを前景に冠雪した富士が描かれて見事な作品である。斯うして富士山は多くの画家を魅了し、拝むような気持で制作を試みる。然しその度にその偉大さに、内面の深さに圧倒される。
それが富士山の実態であろう。
(光永公一)