Spot light
~ESD最終年にあたっての寸感~
まもなく<ESDの10年>が終わろうとしている。そもそもこの地球的課題に挑む10年計画は、2002年の第57回国連総会に日本が提案し採択され、国連はその主導機関をユネスコと決めて進めてきた。
10年間にわたって取り組んできたにしては、その内容が多少なりとも一般市民に理解されるようになったのは、ごく最近のことではないだろうか。
理由はいくつか挙げられようが、第一には「Education for Sustainable Development=ESD」の日本語訳にあったかと思う。この正式な訳語は「国連持続可能な開発のための教育」と長々しい。
国連が国際年を導入したのは、1957年「国際地球観測年」が最初だったように記憶するが、年を追うごとに同じ年に2つあるいは3つもテーマを掲げる年があったりする。
その名称もだんだんと長くなり、一番長かったのは2001年の「世界の子ども達のための平和の文化と非暴力の国際10年」。
とてもいっぺんには憶えられない。ESDの場合、Dの邦訳も「開発」なのか「発展」なのか。微妙に使いわけられているようだ。ドイツのユネスコ国内委員会は「持続可能な“未来”」を使っていたとの報道もあった(2013年12月23日付「朝日新聞」朝刊)。
訳語の問題だけではない。ESDを主管しているのは、日本では文部科学省だが、そこではESDを「持続可能な社会づくりの担い手を育む教育」と定義している。
ちょっと待って…と言いたくなる。
人間・生物を含むあらゆる地球環境を未来世代のために保全していく責任は、まずもって今のオトナたちにある筈。
私たちオトナの今が次世代から問われているのだ。「教育」をすぐに「次の担い手を育む」としてしまっていいのか。
かつてユネスコは「Lifelong Education」を提唱し、日本でもその概念が容れられて、それまで「社会教育」と名付けられていた用語が今では「生涯学習」に変わってきている。「教育」を生涯にわたる学習と捉え直したのだ。
ESDが取り組む課題のポイントの一つに「自然環境との関係性を認識して」とある。具体的にはエネルギー教育も包含されている。
原発問題ひとつをとっても、私たちは未来世代に負の遺産を残さないような選択を、生き方をしているだろうか。
今年11月には名古屋と岡山とでESD最終年を総括する大きな国際会議が開かれる。そこでは向後さらに5カ年に取り組むべき「行動計画」も討議されよう。そのアクション・プランにむけてのキャッチフレーズ公募の計画もあると聞く。
願わくは、1956年に日本にやってきた大写真展「The Family of Man 」を作家の高見順が「われらみな人間家族」の名訳で遺したように、あるいは1972年ストックフォルムで開かれた国連人間環境会議で提唱された「Only one earth」をわが友人が「かけがえのない地球」と訳したように、本質がズバリ、子どもにもわかるような標語がとりあげられますように。(尾花珠樹)