ユネスコサロン

カンボジア人によるアンコール・ワット修復

2014年11月22日(土)の「ユネスコ・サロン」はユネスコサロン講師石澤良昭氏大仏殿客殿に講師・石澤良昭氏(上智大学教授)を招き、表題の講演を頂いた。出席者は89名、予め8頁の資料と、講義では120のスライドが使われた。

<講義内容>

カンボジアは、1970年から24年にわたる内戦の結果、人々は全てを失い、ゼロからの出発となった。1980年 氏は戦塵煙るカンボジアに入り、内戦で壊滅状態にあったアンコール・ワットの調査と内戦で行方不明になった友人探しをした。

その後カンボジア民族統合のシンボルである、アンコール・ワットをカンボジア人と共に修復しようと、全世界の人々に呼びかけた。そしてカンボジア人のやる気に希望を託し、彼ら自身の手で修復できるように地元の人材養成に取り組んだ。さらに寄付を募り現地に土地も購入した。ここに「アジア人材養成研究センター」(所長石澤良昭教授)が設立された。

同センターはカンボジアに出かけて行き、彼等が勇気と希望を持って貰うよう幾多の国際貢献をした。その一例が、カンボジアにおける人材養成のため、1989年から2014年までに、上智大学院地域研究専攻においてカンボジア人博士学位取得者7名、修士11名を誕生させた。彼等は本国に戻って社会・経済・文化の第一線で活躍している。

アンコール・ワットは

12世紀スールヤヴァルマン2世が、自ら権威発揚の象徴として、往時のカンボジア人に建設させた、高い尖塔をもった石造の大伽藍である。カンボジア人が最も誇りとする謂わば「富士山」のような存在である。西欧では、1586年ポルトガル人が最初の訪問者であるが、日本でも1632年(寛永9年)に熊本の加藤藩士森本右近太夫が参拝し、その際に残した墨書がある。アンコール・ワットは1992年に世界遺産に登録され、1993年には、この寺院の祠堂を描いたカンボジアの国旗が制定された。

五大遺跡

ところでアンコール王朝の研究は、これまでのアンコール地域中心から、カンボジア国内の密林に埋もれ残された「五大遺跡」とよばれるアンコール時代の遺跡について調査が進められている。

それは先ずアンコールから南東へ約140kmにある7世紀の遺跡ソンボール・プレイ・クック遺跡、同じく北東へ約100kmで10世紀前半の遺跡コー・ケー遺跡、同じく東へ約100km、12世紀の遺跡 大プリア・カーン遺跡、同じく東へ約40km、11世紀末~12世紀初頭の遺跡 ベーン・メリア遺跡、同じく北西へ110km、12世紀末~13世紀初頭の遺跡 バンテアイ・チュマー遺跡である。

この調査の背景には、地方の何もない土地に、まず寺院を建立して「寄進」を呼び込むことで地方経済を活性化させる開発手法があった事が「碑文」の分析から浮かぶ。つまり約600年かけて五大地方の長・顔役などが、王を含め寺院へ多大の物資を寄進(喜捨)することで、その地方経済を潤わした。さらに王朝の領域に網の目のように張り巡らせた「盛土土手道」が重要な役割を果たす。土を突き固めながら盛り上げる「版築」という工法で、幅3~5m 高さ2mの道路が10~12世紀にかけて造られ「五大遺跡」を始めとした地方都市を結んだ。

地形に応じて「石橋」も架けられ、周囲が水につかる雨期でも、牛車が安定して通れる構造だった。そしてこの「土手道」はやがて王朝の版図拡大とともに、南シナ海とベンガル湾都市にまで物流の道を広げた。アンコール都城は当時40万人以上を擁するアジアで最大級の国際都市であった。それ故にアンコール・ワットが建立出来たのである。五大遺跡存在の意味は大きい。しかし現状では、このアンコール・ワット建立の歴史の謎を解く説明は、まだ仮説である。仮説を実証するには五大遺跡などで、さらに詳細な調査と研究が必要で、この解明には更に多くの時間を要する。石澤教授は「現地で養成しているカンボジア人の研究者が、将来自らの手でアンコール史を解き明かすための手掛かりを残せれば」と期待の言葉で結んだ。

<私の感想>

石澤教授がまだ学生の頃の1961年 恩師リーチ教授の「これからはアジアの時代、足元のアジアをしっかり見なさい」との言葉に応じて学生交流の一員としてアジアに赴いた。氏は、そのままカンボジアに残り、現地の若手研究者とともにアンコール王朝の歴史の研究を始めた。
1960年当時の「脱亜欧入」の思想が強い中で、例えきっかけがあったとはいえカンボジアに身を投じて生涯をカンボジアの調査と研究に賭けた、その勇気ある決断には脱帽した。しかも、このことを淡々と話される謙虚なお姿が心地よく印象に残った。  (光永)

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