ユネスコ講座「いま、平和を考える」      目黒ユネス協会顧問 田島 重雄
 1.終戦直後の日本人の平和意識。 
死に向かい飛び立つ若き兵士らの 白きマフラーの眸に消えず  (近藤幸男)
女らがここに身を投げし喜屋岬 記念碑ひとつ波の音聞く    (岩井直子)
   帰り来ぬ兄の噂におよびし時 無言となりて席を立つ父    (三浦綾子)
幸あれと幸子と名つけ往きしまま 帰らぬ父よ死地さえ知れず(横須賀幸子)
戦争に父奪われし子の嘆き 消えることなき長き戦後史    (滝沢教子)
戦争に夫とられて寡婦ながき 母の一生よ石蕗の咲く    (中川みつ子)
戦争に生き残りたる一人にて 平和の灯火守りてゆかむ    (染谷陽子)
 
 以上は「平和万葉集」の抜粋で、当時の日本人の心の内をよく物語っていると思う。これらの短歌にみられるように、終戦直後の日本人一人一人は、戦争を悲しみ、憎み、反省し、そして世界の恒久的平和の先駆けと成るべく、憲法で戦争を禁じ、一切の軍備を持たないことを誓った。 もちろん、国連を始めとする国際機関、また、あらゆるNGOも、「二度と戦争の悲惨を繰り返さない」ことを目標に、各種各様の世界平和機構の整備、その計画の発展につとめていた。
 
 2.しかし、こうした日本国民の切ない願い・祈り、また国際機関による平和機構整備も、東西対立の激化・冷戦の進行と共に次第に消え去っていった。すなわち、1947年以降のベルリン封鎖、中国の内戦などにみられる冷戦構造は、1950年の朝鮮戦争の勃発に至ってその極に達した感があった。当初はともかく、戦火があっという間に朝鮮半島の南端釜山にまで迫るに及んで、日本も防衛体制を考えざるを得なくなり、先ず警察予備隊の新設、その保安隊への転換、更に1951年の日米安保条約の締結、そして1954年には自衛隊設置にまでに至った。我々は、これを一体どう考えるべきであろうか?「日本人の理想放棄とみるか?」「現実への妥協とみるか?」「戦争否定・非武装という日本人の悲願が元々非現実的な夢想とみるか?」自ら考える必要があるのではなかろうか。
 
 3.他方、植民地住民と宗主国との間の「独立戦争、その前後の国内紛争」は、何時しか「冷戦の延長」「代理戦争」にも発展し、泥沼化した場合も多かった。また、領土を巡る問題は「第1次中東戦争」を皮切りに、「イスラエル・パレスチナ間の何十回の衝突」、インド・パキスタン間のカシミールをめぐる「3回の印・パ戦争」、「湾岸戦争」などのように続いた。他方、冷戦構造の終結に伴う自由度の高まりは、民族間・宗教間の対立を浮き彫りにし、旧ユーゴスラビヤ内部の「ボスニア・ヘルセゴビナ紛争」、「コソボ紛争」、そして、今回の「世界同時多発テロに伴うアフガニスタン制裁」など、「文明間の衝突」を思わせる事態を招きつつある。
 
 4.国連始め各種の国際機構は、「軍縮」「核実験禁止」「核拡散防止」「戦略兵器削減」「生物兵器禁止」「化学兵器禁止」「対人地雷禁止」「武器輸出登録制度」「PKO制度」などの条約締結或いは制度樹立により、直接的な戦争防止ないし悲惨な殺戮の防止につとめ、また間接的あるいは、中・長期的な人類の福祉・幸福促進のために、「国連環境計画」、「地球温暖化防止」、「識字教育」、「世界遺産登録」、「婦人子供の人権尊重」、「世界貿易機関(WTO)」などの運動を展開している。
 
 5.これらの各種の施策は、確かに戦争防止に役立ち、人類の福祉に貢献しているが、その迫力はまだ弱く、戦争に向かうエネルギーを抑止するまでには至っていない。このことは、決して遠い中近東、アフリカ、インド大陸ばかりのことではない。身近に日本の周辺に、明日にでも起こり得ることである。北朝鮮は、既に日本列島を越えて太平洋にミサイルを打込み、又アジアの覇権・石油を求める中国も、台湾問題にからみ、台湾沖にミサイルを打込んでいる。ユネスコ運動も、こうした国際政治の緊張を直視し、その進路と方法を定めなければならない。とは言っても、現実的対応にのみに走って、ユネスコの築き上げてきた平和への道、国際理解を出発点とする国際協力、国際連帯に進む道を忘れてはならない。難しい道ではあろうが、決して突破できない道ではないと信じる。
     
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